クィア・ミュージックの情報アーカイブ


Queer Music Review -Live Review-

風太郎企画三十弾『祝日ラプソディ』

2011年10月10日 at 阿佐ヶ谷 NEXT SUNDAY

出演:camy、グリゲアリアス亀、飯島モトイ with 林レイナ、山嵜大路、TIFO'N(出演順)
Opening Act & MC:Men⇔Dy

このライブ観覧記は、もともとは当サイト運営者が Web 日記として公開する予定で書き始め、しかし体調不良で入院したため、フィニッシュには至らず、そのまま未公開となっていたものに、若干の加筆を施して、2014年3月から公開を開始したものです。

祝日ラプソディ

2011年10月10日の体育の日は、阿佐ヶ谷 NEXT SUNDAY にておこなわれた、風太郎企画三十弾『祝日ラプソディ』にお出かけしてまいりました。

最初の2組の出演者のかたたちのパフォーマンスが終わったあたりで、藤嶋は体調が崩れてきてしまって、せっかく知り合いの方々が会場でお声をかけてきてくださっても、無愛想な返事しかできなくて、申し訳なかったです。

今回のこのライブ・イベントの出演者の方々のうち、藤嶋のお目当ては、2組。まずは、X ジェンダーのシンガー・ソングライターの、Men⇔Dy さん。

そしてもう1組は、自らを「オカマのロックシンガー」と呼ぶ、ボーカリストの光悟さんと、アコースティック・ギター担当のふみ亀さんのおふたりによる、自称「ヤサグレ・アコースティック」の、グリゲアリアス亀さん。

Men⇔Dy さんは、この日は MC としての出演で、その歌声を披露なさったのは、オープニングでの1曲のみ。個人的には、もっと Men⇔Dy さんの歌声を聴きたかったです。

Men⇔Dy

そして、2組目に登場した、グリゲアリアス亀のおふたり。Men⇔Dy さんが仲立ちとなって、今回の風太郎企画への出演が実現したのだそうです。

ボーカルの光悟さんのキャラクターとパフォーマンスが、とにかく強烈でした。

グリゲアリアス亀1

誰もが心の奥底に蔵しているであろうネガティブな側面を徹底的に暴き出す、機関銃のように激しくたたみかけるパフォーマンスと、MC の場面での過剰なまでに腰の低い自虐的なオカマ・キャラとのギャップに、最初はビックリさせられました。

でも、このギャップこそが、グリゲアリアス亀の表現の核なんだな、と私は思いました。

曲名はわからなかったんですが、「自分を笑い飛ばせ」というフレーズが歌われている曲があって、字面の上だけでは自虐的にも聞こえてしまうこのフレーズを、しかしグリゲアリアス亀が歌うと、自分で自分を貶めているような内容には、まったく聞こえないんです。

それどころか、ものすごい解放感、爽快感がある。

自虐的に見える内容の歌詞が、ものすごく激しいパフォーマンスによって歌われると、それは卑屈な自己憐憫なんかにはならないんですよ。

そうではなく、これはたぶん、自己解放。

グリゲアリアス亀2 グリゲアリアス亀3

おふたりは自らの音楽を「ヤサグレ・アコースティック」と称されていますが、私の目と耳には、おふたりの音楽とパフォーマンスは、日本では非常に珍しい、クィアーコアの概念に当てはまるものに感じられました。

クィアーコアというのは、ものすごく大雑把に説明してしまうと、「ゲイやレズビアンであることに立脚した社会・文化批判、そして同時に、ゲイやレズビアンのコミュニティのステレオタイプと、その排他的性質をも批判していく文化活動全般」を指していう言葉です。主に1980年代から1990年代にかけてアメリカで盛り上がりを見せたムーブメントです。

したがって、クィアーコアという言葉自体は音楽用語ではなくて、映画やファンジンなどの分野でも用いられる用語なのですが、音楽ジャンルとしてのクィアーコアは、多くの場合はパンク・ロックや、ギャングスタ・ラップなどと結びついています。

このクィアーコアについては、アメリカのパンジー・ディヴィジョンやチーム・ドレッシュといったバンドのバイオグラフィーの中でも紹介しているので、ぜひ参照なさってみてください。

※パンジー・ディヴィジョン バイオグラフィー >> Here

※チーム・ドレッシュ バイオグラフィー >> Here

日本とアメリカとでは、性的少数者を取り巻く社会状況が、大きく異なっています。したがって、日本のゲイ・カルチャーの進化の過程も、やはりアメリカのそれとは大きく異なっています。

そうした背景事情や、そこから生じる人々の意識の違いなどを度外視して、日本とアメリカのゲイ・カルチャーを単純比較するのは、実はナンセンスな行為ではあります。

しかし、それでもなお、私個人としては、この日本に、クィアーコアの概念に重なるアーティストがほとんどいないということが、性の多様性という観点からも、非常に物足りなく感じられていたんですよね。

ゲイのインディー・パンク・バンド自体は、ここ日本にも、実は何組も存在しているんです。というか、ざらだといってもいいくらい。

ところが、自身の性的指向を対外的にオープンにしているゲイのインディー・パンク・バンドとなると、いきなり数が激減してしまう。

パンク文化というのは、本来はカウンター・カルチャーです。つまり、反体制。ということは、性的指向を対外的には伏せているゲイのパンク・バンドは、本来の意味でのパンクからは外れてしまっているんですね。

というのも、その状態というのは、異性愛のみをスタンダードとする社会に迎合しているのと同じことだから。

でも、日本ではそれが多数派なんですよね。日本とアメリカとでは、社会事情が大きく異なっているから。

社会が異なれば、文化の性質も自ずと異なってくるし、性的少数者を取り巻く状況も、日本とアメリカとでは大きく異なっている。だから、クィアーコアのような文化運動が自然発生する土壌そのものが、日本にはない。

もっといってしまうと、日本におけるパンク文化やラップ文化も――さらには日本のロック・ミュージックやポップ・ミュージック全体も――それらは突き詰めてしまえば「舶来の輸入品」であり、少なくともそのスタート地点においては実は「借り物」であったのだから、それらのジャンルが本来持っていた文化的な意味合いとか、歴史的・社会的な文脈というものが、日本ではすでに最初から失われているんですよね。

だから、日本のゲイのインディー・パンク・バンドの多くが、パンク本来のカウンター・カルチャーとしての性質を最初から喪失しているというのは、これはもう不可避のことであって、これを批判することに、さほどの意味はないし、その存在も決して否定されるべきではない。そうでないと、最終的には日本のロック・ミュージックやポップ・ミュージックそのものが全否定されなければいけなくなるから。

そうではなく、日本のパンク文化やラップ文化が、それら本来の文化的な意味合いや歴史的・社会的文脈を喪失している代わりに、日本の社会事情を反映した「日本なりのもの」、つまり「日本独自の文脈をもった日本特有の文化」に変貌を遂げているという事実のほうに目を向ければ、それと同じ理屈で、「日本なりのクィアーコア」「日本独自の文脈をもった日本特有のクィアーコア」というものが存在していても、決しておかしくはないはずなんですよね。

そのように考えている私の目には、グリゲアリアス亀のおふたりの音楽とパフォーマンスは、まさにこの、「日本なりのクィアーコア」であると、そのように映ったんです。

ゲイであることを対外的にもカミング・アウトなさっている光悟さんの表現は、そのテーマのすべてが性的指向に立脚しているわけではありません。

しかし、ご自身がゲイであるということは、正面から引き受けていらっしゃる。

その上で、 MC の場面での通俗的な意味でのゲイのステレオタイプ像を、光悟さんは、その激しいパフォーマンスによって、いきなり根底から覆してしまう。

そのあり方は、クィアーコアにほぼ重なるもののように、私には感じられるんですね。

グリゲアリアス亀のおふたりが標榜する「ヤサグレ・アコースティック」とは、実は「日本なりのクィアーコア」であると、私はそのように思いました。

グリゲアリアス亀4


グリゲアリアス亀 公式サイト
http://grekame.com/

Text and Photo by Takaki Fujishima



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