クィア・ミュージックの情報アーカイブ


Queer Musicians -Japanese-

日出郎

Hiderou

ジャンル:ポップ

燃えろバルセロナ

ターニング・ポイント

花中時代

ShutUppp!

マッチョマンのおにぎり

友人代表

関連リンク


バイオグラフィー

掲載日:2014年1月13日、最終更新日:2014年12月2日

2006(平成18)年から日本テレビ系列で放映されていたバラエティ番組『おネエ★MANS!』のヒット以降、日本のテレビ界では、女性的なキャラクターの男性タレントや文化人、あるいはニューハーフのタレントは、当該番組に出演していたかどうかには関わりなく、一律に「オネエ系」と呼ばれるようになり、お茶の間の人気者として、ひとつのカテゴリを形成するまでに至っている。一方で、そのように「オネエ系」としてひとくくりにされてしまうということは、それらの性のあいだの差異、つまり性の多様性が、番組制作者および視聴者からは見過ごされており、そのことについての理解が必ずしも得られているわけではない、ということを示してもいる。

たとえば、美輪明宏ピーターのように、男性と女性のふたつの性別のあいだを自在に行き来して、どちらの性別をも巧みに演じ分けてしまう現代版女形の俳優兼歌手もいれば、あるいはカルーセル麻紀はるな愛のように、最初から女性としての性自認を持ち、性別適合手術も受けているニューハーフのタレントもいる。さらにはおすぎとピーコのように、女性の話し言葉を用いてはいても、性自認はあくまでも男性であり、男装のままでいるゲイのタレントもいる。それらがすべて一緒くたにされて、「オネエ系」と一括りにされている。

そうした実状を認識しているからこそ、かつてはゲイ雑誌『バディ』の編集者も勤めていたマツコ・デラックスなどは、オネエ系とされているタレントを十把ひとからげに集めたバラエティ番組にも出演しつつ、その中で性の多様性について暗に言及していることも多い(実は、オネエ系タレントの側でも、おそらくはセクシュアル・マイノリティ同士の連帯感の表れではあるのだろうと思われるが、「私たちは」というひとくくりの人称を用いてゲイの性愛観とニューハーフの性愛観をいっしょくたに語ってしまっているケースが、少なくはない。しかし、マツコ・デラックスは、あくまでも「私の場合はこうである」という切り口を、決して崩さないことに、視聴者はもっと注意されたい。これはマツコ・デラックスが一匹狼であることを示しているのではなく、多様性に配慮した結果である)。

こうしたマツコ・デラックスのような存在があるからこそ、オネエ系タレント・ブーム自体の是非は、さらなる時間を経てからでなければ、正当には評価できない。ゆえに、その是非については置いておくとして、「オネエ系」にカテゴライズされる機会が実際に多いタレントのうち、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブなどのように、その出自がドラァグ・クイーンに求められるテレビ・タレントの始祖に位置しているひとりが、日出郎である。

日本のゲイ・カルチャー史上でいうところの、90年代ゲイ・ブームに先行して、80年代後半から90年代前半にかけては、日本のテレビ界では、Mr.レディー・ブームが起こっていた。当時の民放各局は、有名ショーパブの看板ニューハーフを、まるで競うようにして次々と、しかも大量に、バラエティ番組に出演させていた。その中には、当時まだ20代だった、春菜愛の名で活動していた頃のはるな愛も含まれている。その Mr.レディー・ブームにもさらに先行する1985(昭和60)年に、日出郎は、日本テレビ系列の人気バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』への出演を通じて、ニューハーフ・タレントとして大ブレイクを果たした。

日出郎のデビューは、1982(昭和57)年。新宿のショーパブ『ギャルソンパブ』のダンサーとして、芸能活動を開始した。

「『ギャルソンパブ』にウエーターのアルバイトとして入ったら男好きを先輩に見抜かれ、半ば強制的にニューハーフとしてデビューさせられたわけ。その時はタマも取るつもりでいたんだけど、ワタシ、身長が180センチもあって、いつも男役だったのね。だったら取ることもないかと、タマは今もそのままよ」[*1]

その後もさまざまなショーパブで、主演ダンサーとして活躍を続け、そして1985年、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に出演。テレビ界にデビューした。

当時のテレビの視聴者の多くは(あるいは、現在のテレビの視聴者も、そのほとんどは)、女性性の戯画表現であるドラァグ・クイーン特有の、誇張された厚塗りメイクを、決して見慣れてはいない(テレビ・タレントとして活躍を始めてからのマツコ・デラックスやミッツ・マングローブのメイクからは、かつての戯画的な誇張の要素が消えている)。ましてや、ニューハーフとドラァグ・クイーンとの違いとなると、これを認識している視聴者は、ほんの一握りに過ぎなかったであろうことは、想像に難くない。だからこそ、ドラァグ・クイーンならではの誇張されたメイクを施していながらも、当時はむしろドラァグ・クイーンよりも一般に浸透していたニューハーフの肩書きでテレビ番組に出演した日出郎は、カルーセル麻紀に代表されるようなすでに一般に認知されていた従来のニューハーフ像からはかけ離れた、その異質さゆえに、当時の視聴者に強烈なインパクトを与えた。

加えて、日出郎のメイクと衣装は、単に女性性を戯画化したものというよりも、実は高英男のメイクのコンセプトを継承したとも言える、「宝塚の男役を男性が演じる」という性質のものであり、それはドラァグ・クイーンの枠内のみでとらえてみてもなお、他とは一線を画す、特異な個性であった。そうした個性の持ち主が、ニューハーフ・タレントとしてブラウン管に登場することのインパクトは、当時のテレビ界にあっては絶大で、その巧みな話術とも相まって、たちまち日出郎はテレビ・タレントとして大ブレイク。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に日出郎が登場したコーナーはシリーズ化され、日出郎は同番組の準レギュラーとなり、それ以外のさまざまなバラエティ番組にも出演するようになっていった。

「『天才・たけし――』ではレギュラーを10年。人間大砲とか人間ジェットコースターなどをやらされました。それがウケたのか、あちこちから声がかかり、最盛期には週10本ほどレギュラーを抱えてた。たけしさん、タモリさん、さんまさんにはイジられ、可愛がっていただいたわ」[*1]

そんな日出郎の、歌手としてのソロ・デビュー作は、1992(平成4)年6月にアルファレコードからリリースされた、「燃えろバルセロナ」。スペインのディスコ DJ、チモ・バヨの1991(平成3)年のヒット曲「俺はチモ・バヨ~燃えろバルセロナ (Asi Me Gusta A Mi)」の日本語カバーである。原詞からの空耳に基づいた「エクスタシー得たけりゃ肛門よ」という日本語詞が、強烈な印象を残す。

90年代の後半に入ると、日出郎は日本での芸能活動を休止して渡米した。

「自分の時間を持てないことに嫌気がさし、それで活動を停止したのよ。その後は5年ほどアメリカ暮らし。有名なル・ポールなどゲイのアーティストたちの活躍に感動したものよ。それで日本でもゲイの地位を高めなくちゃと思って帰ってきたら、すでに過去の人だった、ハハハ」[*1]

帰国した日出郎は、1999(平成11)年に『ギャルソンパブ』の主演ダンサーに復帰して、芸能活動を再開。そして2003(平成15)年10月には、2枚目のシングルとなる「ターニング・ポイント」をニューセンチュリーレコードからリリース。そのジャケット写真では素顔をさらけ出している他にも、自ら作詞を手がけるなど、タレントからアーティスト=表現者への、文字通りの転換を図った作品である。

2000年代の後半になると、日出郎は舞台演劇の世界にも進出。ニューハーフ・タレントの肩書きを持ちながら、演劇の分野では男性の役を演じている日出郎は、美輪明宏やピーターと同様、性別を越境した舞台俳優としての顔も持ち合わせるようになった。

2009(平成21)年7月には、アジア最大のゲイ・タウンである新宿二丁目に、MIX バー『Concierge』をオープン。これと前後して、日出郎はゲイ・コミュニティのイベントにも出演する機会が増えていき、その活動基盤をゲイ・コミュニティに置くようになっていった。自身のオフィシャルブログ中でも、日出郎は幾度となく、新宿二丁目を「ホーム」だと明言している。また、やはりこの時期から、日出郎はダンサーから歌手へと、活動の主軸をシフトし始めており、2009年10月4日には、新宿二丁目の Club ArcH にて開催されていた HIV 啓発イベント『Living Together Lounge』に、ショー・ダンサーではなく歌手として、ライブ出演をおこなっている。

2010(平成22)年4月4日(俗に「オカマの日」と言われている)には、オープンリー・ゲイの歌謡歌手としてインディーの世界で活躍しているずれやまズレ子と、日本テレビ系列のバラエティ番組『進ぬ!電波少年』でブレイクしたお笑いタレントの坂本ちゃんと、歌謡曲ユニットの花中を結成、デビュー・シングル「花中時代」を、ヴィヴィド・サウンド・コーポレーションをディストリビュータとする、ずれやまズレ子が主宰のインディー・レーベル、Zureyama's Record からリリースした。ユニット名の「花中」は、「花の中年トリオ」の略で、森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」のパロディとなっており、花中として活動する際には、ずれやまズレ子は花中昌子、坂本ちゃんは花中百恵、そして日出郎は花中淳子を、それぞれ名乗っている。

2011(平成23)年1月には、新宿二丁目に MIX バー『KUKUNA MAHALO』を新たにオープン。ここを会場に、日出郎は自身のアコースティック・ライブを頻繁に開催するようになった。2月には、「ターニング・ポイント」以来のソロ作となるシングル「ShutUppp!」を、Zureyama's Record から HDR 名義でリリース。カップリングの「シンデレラ・ハネムーン」は、日出郎が敬愛している岩崎宏美のヒット曲を、トランス・アレンジによってカバーしたものである。

同年9月4日には、HIV 啓発イベント『Living Together Lounge』に、今度は花中として、二度めの出演。10月1日には、東日本大震災によって甚大な被害を受けた宮城県石巻市で、花中としてボランティア・ライブをおこない、花中の新曲「マッチョマンのおにぎり」を、ここで初めて披露した。同曲はヴィレッジ・ピープルの作風をなぞった応援ソングである。

2012(平成24)年6月には、「マッチョマンのおにぎり」が music.jp から配信を開始。10月には、ずれやまズレ子のカバーである結婚式ソング「友人代表」が、芸能生活30周年記念作として FANTAGIO ENTERTAINMENT からリリースされた。ダブル A サイド扱いのカップリング「ガン降りの雨」は、やはりずれやまズレ子が作詞・作曲を手がけた、日出郎初の演歌である。


*1 日出郎さん NYでゲイ文化に触れ帰国すると“過去の人”に(ライブドアニュース、2014.12.01)

(文中敬称略)



inserted by FC2 system