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Queer Musicians -Overseas-

ダナ・インターナショナル

Dana International

ジャンル:ポップ

Diva ha'osef

Free

Dana International

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バイオグラフィー

掲載日:2005年11月14日、最終更新日:2013年11月14日

本名はヤロン・コーエン。1972年、イスラエルのテルアビブに男の子として生まれた。家は貧しかったが、幼い頃から歌の才能の片鱗を見せていたヤロンに、母親は惜しみなく音楽のレッスンを受けさせていたという。

14歳のときに、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストで歌うオフラ・ハザの姿をテレビで観て、ヤロンは強い憧れを抱いた。ユーロヴィジョン・ソング・コンテストは、アバやセリーヌ・ディオンなどが全世界でブレイクするきっかけとなった、世界的に権威のある、若手アーティストの登竜門ともいえる音楽祭である。そのユーロヴィジョン・ソング・コンテストで、イスラエル代表として歌っているオフラ・ハザの姿に、自分も将来は彼女のような歌手になろうと、ヤロンは堅く心に誓った。

16歳になり、ヤロンは友人に連れられて、テルアビブのゲイ・クラブ・シーンに足を踏み入れるようになった。当時はマドンナの全盛期で、リベラルで華やかな世界にすっかり魅了されたヤロンは、その女性的な声と、優れたボーカル技術を活かして、ドラァグ・クイーンとしてショーで活躍するようになった。後にダナ・インターナショナルのマネージャーを務めるようになる DJ の Offer Nissim と出会ったのもこの頃であり、また自分が性同一性障害であると自覚したのも、この頃である。

そして1992年、20歳のヤロンは Offer Nissim と組んで、Offer Nissim featuring Danna 名義で、ホイットニー・ヒューストンの「My Name's Not Susan」のカバーである、「My Name's Not Sa'ida」をリリース。ラジオでヘビーー・ローテーションとなったこの曲は、ダナの最初のヒット曲となった。これによって得た収入で、彼は翌年、ロンドンで性別適合手術を受け、ヤロン・コーエンからシャロン・コーエンとなった。

そしてシャロンは、ダナ・インターナショナルの名で、1st アルバム『Dana International』をリリース。英語によるダンス・ミュージックと、ヘブライ語による民族音楽、そしてアラビア語によるカバー・ソングを混載したアルバムであった。

『Dana International』は、イスラエル国内だけで50万枚を超えるセールスを記録したにもかかわらず、大衆はダナ・インターナショナルという存在を、必ずしも両手を広げて歓迎してくれたわけではなかった。特にユダヤ原理主義の人々は、ダナをあからさまに侮蔑し、人々を惑わす悪魔のように呼ばわった。

1994年には、2nd アルバム『Umpatampa』をリリース。翌95年には、リミックスと新曲を併録した『E.P.Tampa』をリリースした。さらに同年、ダナはユーロヴィジョンのイスラエル代表を選考するプレ・コンテスト、KDAM にも出場した。しかし、国内では群を抜いた実績を上げているにもかかわらず、結果は2位となり、彼女は幼いころからの夢だったユーロヴィジョンへの出場を果たせなかった。トランスセクシュアルである彼女への偏見は、まだまだ根強いということを、まざまざと見せつけられたのであった。

ダナ・インターナショナルの商業的成功が、イスラエル国内だけにとどまらず、近隣諸国にも及ぶにつれ、彼女の性をめぐる騒ぎも拡大していった。エジプトでは、ダナのアルバムの違法コピーが闇市場で500万本も出回り、ダナはエジプトの若年層のあいだでは熱狂的な人気を得ていた。にもかかわらず、エジプト政府は「ダナ・インターナショナルは、エジプトの若者を堕落させようとする、モサド(イスラエルの諜報機関)のエージェントだ」という声明を出し、ダナの音楽を禁止した。

原理主義者からの偏見と弾圧にも屈せず、彼女は音楽活動に取り組み続けた。1996年には3rd アルバム『Maganuna』をリリース。アラビア語で「Crazy」に当たるこのタイトルには、ゲイやトランスジェンダーを罪悪とする、エジプトを始めとしたアラブ諸国に対する、彼女からの返答が込められていた。

"Maganuna"
(1996)

1997年、イスラエルでのユーロヴィジョンの代表選考の方法が、KDAM による選考から、IBC (イスラエルの放送局)による内部選考に改められた。その結果、ユーロヴィジョンのイスラエル代表に選ばれたのは、ダナ・インターナショナルだった。ダナは、いよいよ夢であったユーロヴィジョンへの切符を手にしたのだった。

しかし、トランスセクシュアルである彼女がイスラエル代表として出場することには、イスラエル国内からも強い反発が起こった。特にユダヤ原理主義者のあいだからは「この選考結果は、イスラエルの音楽を地に落とすものだ」という声が上がった。しかし選考委員会は、そのような反対意見に、こう回答した。
「イスラエルは、戦争とテロリズムの国だと世界からは思われている。だが、ダナのような人を送り出すことによって、イスラエルは進歩的で、自由で、近代化された国だと世界に知らせることになる。ダナの歌は、他と比べて大いに優れていた。斬新なユーロポップであり、頂点を極めるだろう。ダナ自身がヨーロッパの関心を惹くのも事実だろうが、それは歌の評判を高めるだけに過ぎない。そもそもユーロヴィジョンを観ないような人々が、我々の選択を変えさせようとするのはおかしな話だ。」

イスラエル国内で巻き起こった強い反発が、かえって大きな話題を呼び、ダナはユーロヴィジョンの開催前から、ヨーロッパ各国のマスコミの取材攻勢に晒された。開催地であるイギリスのバーミンガムで、リハーサル後に開かれたダナの記者会見には、他の出演者の会見を大幅に超える、400人以上の記者やカメラマンが集まった。どの記者も、概ねダナに好意的であった。ただひとり、スウェーデンのある記者が、「性別を変えるために、あなたは正確には何をなさったのですか?」という意地の悪い質問を放ったが、その質問にダナは「もしあなたに時間があるんだったら、個人的に教えてさし上げますけれど?」と巧みに切り返し、この記者は会場中の失笑を買った。

こうした狂騒の中、5月9日にバーミンガムのウエンブリー・アリーナで開催された1998年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストで、ダナはヒット曲「ディーヴァ (Diva)」を熱唱し、見事に優勝した。

ダナ・インターナショナルは、長年の夢を、ついに実現したのだった。

"Diva"
ディーヴァ
(Live from "Eurovision Song Contest", 1998)

トランスセクシュアルのアーティストが、イスラエルの代表として、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストに出場し、しかも優勝したというニュースは、世界中のメディアで大きく取り上げられ、一躍ダナ・インターナショナルの名は世界中に知れ渡ることとなった。

優勝後、イギリス新聞協会からのインタビューで、ダナは、彼女を攻撃し続けてきたユダヤ原理主義者について、こう述べた。
「私は皆さんを許します。私の勝利は、私が神と共にあることを証明してくれました。私は彼らに、許しのメッセージを送りたい。そして、こういいたい。『私を受け入れてください。私のような人生を、私がしたような選択を、理解するように努めてください』と。私の姿は、私が神を信じていないことを表しているのではなく、私はユダヤの一員ではない、ということなのです。」

また、別のインタビューでは、ユダヤ原理主義者について訊かれて、ダナはこう答えている。
「いい? よく聞いて。彼らはね、私のオーディエンスではないのよ。」

ユーロヴィジョン優勝という快挙を受けて、ダナのレーベル、Dana Music は、イスラエル国内向けには『Diva ha'osef』、そして初の国外向け制式アルバムとなる『Dana International : The Album』の2枚のコンピレーション・アルバムをリリース。ダナ・インターナショナルは、本格的に世界へと乗り出した。

1999年には、オリジナル・アルバムとしては4作目にあたる『Free』を、まずはイスラエル国内で発売。翌2000年には『Free』の国外仕様を全ヨーロッパや日本に向けてリリースした(日本でのタイトルは『ディーヴァ』)。タイトル曲の「フリー (Free)」は、スティーヴィー・ワンダーのカバー曲である。

"Free"
フリー
(1999)

『Free』のプロモーションの一環として、ダナは日本にもやってきた。2月25日に TBS 系列の報道番組『筑紫哲也 NEWS23』に出演。メイン・キャスターの筑紫哲也からインタビューを受けると共に、ユーロヴィジョンの優勝曲である「ディーヴァ」を、スタジオでパフォーマンスした。

以降は、2001年に5th アルバム『Yoter Ve Yoter』を、2002年に6th アルバム『HaHalom HaEfshari』をイスラエル国内でリリースしている。2005年には、イスラエルのニュース・サイト Ynet による一般からのアンケート調査で、ダナはイスラエル史上最も偉大な200人のうちの47位にランキングされた。

"Lola"
(2005)

2007年8月には、アルバム『Hakol Ze Letova』がリリース。先行シングルの「Love Boy」は、イスラエルのラジオでは過去10年で最多のエアプレイ数を記録した。

2009年には、イギリスのオーディション番組『Pop Idol』のイスラエル版である『Kokhav Nolad』の第7シーズンに、ダナがジャッジとして出演。2010年の第8シーズンでも引き続きジャッジを務めた。

2011年、ダナは再び、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストのステージに登場。自作曲「Ding Dong」を引提げてイスラエル予選で優勝し、ドイツのデュッセルドルフでの本選に駒を進めたものの、残念ながら2nd セミ・ファイナルで敗退した。

"Ding Dong"
(Live from "Eurovision Song Contest", 2011)

(文中敬称略)



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